えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

舞台『殺人鬼フジコの衝動』

幼少時に一家惨殺事件の現場にただ一人の生き残りとして発見された11歳の少女・フジコ。フジコは叔母の家に引き取られて新しい生活を始めるが、転校先の小学校に馴染むことに失敗し、辛い日々を過ごしていた。そんなある日、フジコはとあることから口論になった同級生を屋上から突き落としてしまう。しかし事件の真相は解明されず、逆にそのことはフジコの生活を好転させるきっかけとなるのだった。やがてフジコは高校を卒業して就職し東京で社会人としての生活を始めるのだが、そこでも彼女は衝動的な殺人を繰り返す。「殺してしまえばなんとかなる」という愚かな考えの下に…。


■感想
まぁ、とにかくですよ。不幸を絵に描いたような主人公・フジコをガキさんが演じ、それが学校で苛められるは、会社で蔑まれるは、最低な男に騙されるはで、確固とした自分というもの持たず、環境に流されるままにオロオロと悪い方に転がり落ち、いよいよとなって主体性を発揮する手段が「人殺し」ってんだから、そりゃあ陰鬱・陰惨な話なんですよ。見ていて非常に嫌〜な気分になる不愉快な物語でした。そしてそれは原作を読んだ時の感想と正しく等しいのです。


■原作とその仕掛け
そう、この物語の原作者である真梨幸子というのは嫌〜な物語を書く作家なのです。そしてその作品の多くは、その嫌な部分を抜けた後にそれまで見てきた物語を見る角度を変えてしまうネタバラシのオチが用意されています。そのオチによって爽快な結末となるかと言うとその逆で、さらに輪をかけて嫌な気分にさせ、最悪の読後感の中に読者を放り出すというのがこの作者の真骨頂なのです。この『殺人鬼フジコの衝動』においてもそれは同様で、小説版においては巻末の解説(フェイク)によって実はこの小説自体が作中いくつかの殺人事件の真犯人を告発するためにフジコの娘によって書かれたものであることが語られるというフェイクドキュメンタリー的な構造となっているのです。


なので、この仕掛けの部分を演劇という媒体でどう消化するのかというのが最大のポイントとなります。果たして演劇では、小説における「本編」が舞台上で終わった時点でいったん舞台が終了し、カーテンコールが始まります。そしてカーテンコールの最後にその演目の脚本家でもあるという「フジコの娘」役を演じた役者が終演の挨拶としてステージに残り、この舞台を作った意図を説明し、そこで… と真の結末に至るわけです。


考えてみればこれは相当にハードルが高かったでしょう。まず真のラストの手前の「偽の本編終了」の段階で、客にここで舞台が終わりなのだと納得させ、なおかつカーテンコールが起きても不自然ではないくらいに演劇として完成していなければいけません。そしてカーテンコール後の展開も不自然ではいけないけども、本当に終演したと勘違いして実際に客が帰ってしまわないように、テンポ良く進行しないといけないわけです。そこを見事に切り抜けてみせました。
(ちなみに開演前の場内アナウンスで本編の上演時間をフェイクの「本編終了」の時間に合わせて言っていた所からもう客を騙しに入ってたんだな。あれは開演前アナウンスじゃなくて、あの時点で既に舞台は開演していたわけだ)


とにかく部分的な内容の改変も含めて、小説と演説という表現方法の違いを考慮し、違う内容、違う手法だけども、原作と同じ嫌な気持ちを味あわせることに成功していたと思います。要するにこれは原作が演劇用に正しく翻訳されていたということで、演出の一番の勝利だと言ってもいのではないでしょうか。



■難点
このように上手く演劇化されていたこの舞台ですが、それでもいくつか気になった点はありました。
一つは苛めや殺人などの気分が悪いシーンを観るのはやはりキツいということ。小説で読む分には平気だったんですけど、やっぱりビジュアルがあるとキツいですね。そもそもがメタ演劇なのだからあそこまでリアルにするよりはもっとミュージカル風に抽象化した味付けをしてもよかったかもしれません。


もう一つは真のラスト。最後のドンデン返しで嫌な気持ちになった後そのまま現実に放り出される読後感こそが原作小説の醍醐味。小説だと小説が終わればもはやページをめくりようもなく、これで終わりであることは自明で、読む手は作品につき放されたことを安心して味わうことができます。しかしリアルタイムで進行する演劇の場合、暗転で放り出された後も、その「放り出された感」を楽しむよりも、「これで本当に終わりかな? まだ何かあるのかな?」と周囲の様子を窺いつつ待ってしまうんですよ。それがこの舞台のラストシーンの切れ味を鈍らせていると感じて少々残念ではありました。逆にテレビや本だと放送時間やページ数から「まだ終わってないな」というのがネタバレするんだけども。



ガキさん
さて、こんな難しい舞台の終演を務めたガキさんですよ。舞台の間に小学生〜30代までを演じたことももちろん難易度は高かったでしょうが、むしろ「自分というものを持たず周囲に流される人間」というものを演じることの方が難しかったのではないでしょうか。なんせ我が強い役者や表現者とはある意味反対の人種にあたるわけですからね。だけどガキさんは、この不幸なんだけど共感できずに観ていてイライラする役を見事に熱演していました。あと男に騙される様が生々し過ぎて、ガキさんが大好きな生田にはちょっと見せられないなとも思いました(w


そして特筆すべきはガキさんが歌う『夢見るシャンソン人形』。先に書いた通りこの舞台では内容的にはまだ不十分な「真のラストの手前」の段階でいったん本編終了かと客に錯覚させなくてはなりません。そのために起用されているのがガキさんの歌なのです。とにかく一人の女性の人生を背負ったその歌唱は胸に迫る迫力があって、内容の多少の取りこぼしは忘れさせ、「ここで終わりなんだな」と納得させるだけの大フィナーレ感を強引に創出しているんです。ラストの展開はこの歌の説得力があってこそ有効だったと言えるでしょう。そういう意味では役者としてだけじゃなく、「歌手」としての力を乞われてのキャスティングであったのだろうと感じました。ガキさんの演技や歌手力が作劇に不可欠な要素として組み込まれているというのは、ガキさんがスタッフに信頼されているということです。そしてその信頼に応えているガキさんを見るのは心強く嬉しいことでした。まぁ、見てるほとんどの時間はフジコが不幸でキツかったけどね…w