えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

マガジン読み切り『聲の形』

先週の週刊マガジンに掲載された読み切り作品『聲の形』がネット上で「名作!」「必見だ!」みたいに話題になっていたので読んでみましたが……… 


ストーリーはこうです。

ある日、主人公・石田が通う小学校に聴覚に障害を持った硝子(しょうこ)が転校して来る。教室は浮いた存在を持て余すが、合唱コンクールをきっかけに硝子はクラスメートから苛められ始める。石田も率先して苛めに加担する。苛めが問題になるとクラスメートは石田一人に罪を背負わせ、今度は石田が苛められる事となる。硝子はやがて転校し、二人は離れ離れになる。5年後、高校生になった石田は硝子に再会。手話で「友達になれないか」と話しかけてハッピーエンド。


えー? 倫理的収支が合っとらん。石田が他のクラスメートに苛められるようになったからといって硝子に対する負債は何ら軽減しとらんでしょう。再会して土下座して謝罪するならともかく「友達に」ってナニ? それとも健常者が手話をわざわざ覚えてあげて、友達になってあげることで倫理的負債は帳消しなんだとこの作者は考えているのでしょうか?


これがハッピーエンドみたいに描かかれてますけど、普通は苛められてた側が苛めてた人間と友達になりたいなんて思わないでしょう? どっちかと言えば二度と関わり合いになりたくないはず。それが「手話を覚えてくれた」だけで喜んで歩み寄るなんて硝子は中学・高校でもよほど悲惨な生活を送ってるんじゃないかと思えてしまいます。


私だったら、硝子はちゃんとリア充になってて、石田が「友達になれないか」と手を差し出した時にイケメンで石田よりよほど手話が上手い彼氏が現れて「誰、こいつ?」「知らない、行こ」っつって石田を置き去りにするラストにするかな。その方がよほどしっくり来るし、硝子がハッピーになっている終わり方だと思います。



全体的に硝子が聖人君子に描かれ過ぎなんですよね。その点、『3月のライオン』のヒナちゃんの、苛めが解決した後に先生に話した「私、あの人たちを許さなくてもいいですよね?」というセリフの方が共感できますし、当たり前の感情だと思うんです。なんだかね、健常者から歩み寄られたら障害者は苛め被害を無条件で許すように(あるいはそれがあるべき姿であるかのように)描かれてるように見えるんですよね。苛められ、何度も補聴器を壊され、100万以上の損害を与えられて…。そんなんされたらフツーは障害者だろうが誰だろうが当然相手を自分の人生から排斥し、拒絶します。健常者と同じように。障害者だからって無限で寛容で、健常者から手を差し伸べるのをずっと待ち続けているかのように描くのは、その根っこは差別と一緒ですよ。


ちなみに私が中1の時にやっぱり耳の聴こえない女子が同じクラスにいたけど別にフツーでしたよ。いろいろ違ってたけど、私たちのクラスの「フツー」でした。



私の『君の手がささやいている』感想