えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

四谷にて

飯田橋にある会社によく用事で出かけるのですが、四谷とお茶の水の間の各駅には中央線が停車しないために、家から飯田橋に行く際には、まず中央線に乗って四谷まで行き、そこで各駅停車の総武線に乗り換えて2駅進むことになります。しかしこの四谷での乗り換えがちょいと不便なのです。


というのも「中央線上り」から同じ進行方向の「総武線上り」に乗り替えるために階段を登り降りして隣のホームに移動しなければならないからです。それ自体は仕方がないのですが、不便なのは多くの「中央線上り」と「総武線上り」がジャスト同じタイミングでホームに入るということ。つまり目の前に見えている電車に乗り換えようと思ったら、四谷に着いた途端にダッシュで階段を昇り降りしなきゃならんわけです。それも階段に一番近い扉から出て、ギリギリ間に合うというほどシビアなタイミングで。そりゃあ、ちょっと待てば次の電車が来るんだから、焦らず待てばいいのはわかります。だけどやっぱり乗るべき電車が離れて行くのを目の前で見送るというのは切ないものがあるのです。


ところが同じく「中央線上り」から「総武線上り」に乗り替えるのでも、隣の御茶ノ水駅で乗り換える場合、同じホームの反対側に数歩歩くだけでいい。しかも乗り替え連絡のために総武線は中央線を待っていてくれるわけです。


ここから推測されるのは、あの四谷での乗り替えに不便な両線の発車タイミングというのは、御茶ノ水でちょうど良いタイミングとなるよう組まれたことから発生しているものなのではないかということです。つまり、より利用客が多い御茶ノ水での利便性に最適化されて運行プログラムが組まれた結果なのではないかと。


ま、些細なことなんでこれ自体は不便ではあるもののどうでもいいんです。




ここからただちょっと思ったのは、世の中とはつまりこういうもんだなということ。つまり世のほとんどの制度は多数派を基準として設計されていますから、少数派である場合、不都合を押し付けられることも少なくないのです。それが良いとか悪いとかではなくて、単純にそういうもんだと。


私なんかは自由意思で少数派(自由業)を選んできたという自覚があるので、ある程度の不都合は受け入れるしかないと思っています。さっきも言ったように、単に社会制度とは「そういうもの」ですから。だけど世の中を見渡すと、少数派であることで被る不都合の是正を訴える際に、それを「多数派による少数派の差別である」と主張する人も多いように感じます。


もちろん、より公正な社会作りのために、是正可能な少数派の不都合はできる限りは是正されるべきです。ですがそれを「差別だ」と言ってしまうと余計な反感を買うことになりかねません。本当の差別問題に取り組んでいる人まで世間から煙たがられるようなことがないように、自分が被る不都合を是正しろと声を上げる前には、それが差別に起因するものなのか、単に少数派に属することによるなのかは、峻別する必要があると思った次第です。



まとめると、「確定申告が面倒臭い」ということ…かもしれません。