えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

『ロリヰタ』

ちなみに昨日書いた嶽本野ばら氏はロリータファッションに造詣が深く、それを題材とした小説を書くことで有名な方だそうです。私は映画化されて有名になった『下妻物語』で知りました。


で、この『ロリヰタ』という小説は、ロリータファシッションをこよなく愛する主人公である「ぼく」が、美しい少女モデルである「君」と出会い、心を通わせるも、それが世間からスキャンダルとして糾弾されるという物語です。主人公が作者の経歴とダブらせてあって、一種のモキュメンタリー(擬似実話)的な側面もあるのかな。裏表紙の宣伝文句いわく「事実かフィクションかという謎が論争を呼んだ」そうですし。


で、この話の中でロリータファッションを愛し、実際に男ながらロリータファッションに身を包む「僕」は、ただ、ファッションとしてのロリータが好きなだけなのに、世間からはよくオカマだとかロリコンだと誤解される存在なわけです。そしてこの小説の中で大人が愛好しているとロリコンだとレッテルを貼られるものの象徴として、「加護ちゃん」と「ミニモニ」が頻繁に登場するのです。


それは一方で、少女モデルが無邪気に愛好しているものの象徴としても描かれます。その認識のされ方のギャップがそのまま、登場人物たちの認識齟齬であったり、世間とのギャップとなって描かれているのです。


話は変わりますが 、私は小説にその時代、その世俗に沿ったこうした固有名詞が登場するのは嫌いではありません。それらはすぐに廃れ伝わらなくなる言葉ではありますが、今現在と向き合ってない作品が文学としての普遍性を手に入れ、時代を超えるとも思えません。例えば随分昔に書かれた外国の文学などを読むと、その時の風俗が理解できず、注釈と首っ引きで読むことになりますが、その程度の不便さが作品の価値を減じていると感じたことは一度もありません。


しかし、加護ちゃんのケースのように、後から発生した事件によって「加護亜依」の意味に余計なノイズが付加されると、やはりそれは不適切な言葉選びとなるのかもしれません。一つの「言葉」が意味を失うというのは、痛ましいことだと私は思うのです。