えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

少年法徒然

今日は藤井誠二宮崎哲弥による改正少年法に関する討論本『少年をいかに罰するか』を読んでたら、『家栽の人』を読みたくなったんでまんが喫茶に寄って来ました。


家栽の人』の「少年」に対する姿勢は明瞭で、桑田判事の次のような言葉に集約されます。

「どんなに厳しく罰しても少年はいつかは出てきます。誰かの隣に住むんです。その時少年が笑っていられるように考えるのが大人/司法の役割ではないでしょうか」

加害少年の幸せを望むかのこの桑田判事の言葉は一見甘く聞こえるけども、「笑っている(=幸せ)」というのは「再犯を犯さない」状態も指しているわけで、これは社会にとっても望ましいこと、つまり公益に即しているとも言えます。


ただこの更正と教育を基本とする考えは、厳罰を望む被害者・被害者家族の感情と対立することが多いでしょう。特に殺人などの回復困難な重大犯罪の場合、被害者側は突如こうむった理不尽に対し、加害者への厳しい処分にせめてもの慰撫と納得を見い出さない限りは、人生への復帰もままなりません。「応報感情を満たす」という意味合いではなく、犯罪によって「社会」が受けた傷を修復するという観点から、懲罰的処分にも必要性は認められるべきでしょう。問題は、加害者の人生への復帰と、被害者の人生への復帰が対立した場合、どちらを優先させるのか。残念ながら『家栽の人』の視界には犯罪被害者の存在は入っておらず、こういった論点は示されていませんでした。



あと欠けていると感じたのは、加害者と社会との利益対立という問題。公益といっても、被害者感情にのっかる形で犯罪者叩きをしたがる世論を満足させることではもちろんありません。要は「犯罪者が犯した罪に相当する罰を受けていないと、社会のモラルは劣化する」という考えに基づく対立軸です。


100万盗んで使い切り、刑事罰が罰金10万。
こういう超極端な事案を想定してもらえばわかりやすいでしょうが、単純に罪に対して罰が軽ければ「やり得」ということになってしまいます。少年犯罪に限らず、ルールを破った者が得をして、ルールを守った者がバカを見る社会になっては、秩序と倫理は崩壊します。「悪いことしたらバチが当たる」という原始宗教的な観念の代役を司法に求めるのは筋違いかもしれませんが、実効性を持つ以上は、期待はしてしまうものです。


ちなみに『少年をいかに罰するか』は決して厳罰化か現状維持か、あるいは懲罰か保護教育かといった単純な対立軸で議論されたものではなく、どっちかと言えばもっと根本的な法理念とそれを適正に運用するためのシステム構築に関する議論が主体でした。一部法曹関係者からは空理空論という批難を受けたようですが、評論家とジャーナリストという、第三者的立場だからこその提言も多く、興味深かったです。