えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

『カウンセラー』(著:松岡圭祐)

映画化された『催眠』や『千里眼』シリーズで知名度を上げた松岡圭祐の小説。『催眠』の続編にあたる。私は『催眠』から『後催眠』を経て『千里眼』シリーズへと飛んでしまっていたので、この『ハウンセラー』は取りこぼしていたなだけど、古本屋でみかけて買ってみた次第。
「娯楽小説」としか形容のしようのない内容であり、そしてそれは作者の意図するところでもあるだろう。決してお上品な評価は求めていない。面白ければいいと。


いわゆる「文学」と呼ばれるものをクラシック音楽に例えるなら、松岡圭祐の小説はまさに「つんく♂楽曲」だ。その基礎理念となっているのは猥雑さと時事的な訴求力(=「大衆性」)であり、それを支えるのは関心を惹くための「ギミック」と、誰でも入っていける「平易さ」である。従来の職業領域から逸脱して本の丁装や映画の脚本にまで顔をつっこむ当たり、プロデューサー志向という点でも似通っている。




今回の『カウンセラー』もまぁ、例によって例のごとくな内容なんだけど、筋書きとしてストーリー全体を時系列順に箇条書きに抜き出してみると一つ気がつく点がある。


「家族を殺された女教師が復讐のために拳銃を購入する」


全体のプロットの中でこの部分だけが、まるで砂時計の真ん中のくびれた部分のように極端に弱いのである。それ以外の部分で突拍子もない内容があっても、少なくともこの作品世界の中でのリアリティは保たれており、読み進めるにあたって障害となることはない。しかし全体の中でこの要素だけがその堅持された説得力のラインを逸脱しているのだ。やはりそれまで犯罪に無縁で生きてきた女性がいきなりアンダーグラウンドな店で実銃を購入できてしまうというのはさすがに無理がある。


で、この作者はどうしているのか。なんと
このシーンをプロローグとして銃器店店主の視点から描写している
のだ。


読者がまだ作品世界の常識基準を構築する前にこのシーンを描写することで、全体の中での異質さを誤魔化しているのだ。また、この位置であればこの店がどのような店であるか、どのような客が普段訪れるのかを字数を割いてに描写しても決して不自然ではないし、また「意外にも」カタギの人間が訪れることも珍しくはないのだと説明しても違和感はない。これが、仮にストーリーを時系列順に書いていたとしたらどうだろうか? 女教師がこの店を探し当てるにあたって、この店がどういう店かとか、まして「カタギの人間が訪れることも珍しくない」なんて描写していたら、あたかもその不自然さに言い訳をしているかのようで、物語全体の中でここがウィークポイントであることをかえって宣伝する結果となっていたに違いない。しかし実際はプロローグでの描写があったことで、読み進めた読者がこの場面に行き当たっても「ああ、冒頭のあのシーンにこうしてつながるのか」と納得するだけで違和感を感じずに通り過ぎてしまうのである。そういう意味で、非常に戦略的な措置が取られているなと感じ入った次第。


本来ならこういう戦略的な構成は編集者からの助言によることが多いのだろうけど、前述のように「従来の職業領域から逸脱」して全体を鳥瞰するプロデューサー的思考を持つ松岡圭祐のことだから、これは本人の決めた構成のような気がする。なんせ『「催眠」のなぞ』っていう謎本まで自分で書いてしまう人だからねw



ちなみにこれから連想したのは、『ザ☆ピ〜ス』において「HO〜ホラ行こうぜ!」などが冒頭に来ているのにも、同種の戦略的理由があるのだろうな、ということだった。