えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

読了

『ツ、イ、ラ、ク』 姫野カオルコ角川書店

なにげにすごいというか、こういうことって小説で表現できるんだと正直驚きました。多分、よく本を読む人こそ感嘆すると思う。だってこの作品のテーマは「ストーリーテリング」というものと完全に相反することなんだもの。小説だけじゃなく、映画とかマンガとかにも言える。


内容的には登場人物たちの田舎街での小〜中学生の日々とその後を描いた青春小説と分類されるんでしょう。だけど、描写の対象がチラチラ変わったりしてなかなかメインストリームが何なのか正体がつかめない。ただ日常が積み重ねられていってるだけのようにも感じる。そのうち性愛という要素も入って来る。そこにウェイトがかかってるのかと思いきやそうでもない感じもしたりする。なんだ? 散漫なのか? でも面白い。そうこうして最後まで読み進むと、その「散漫さ」こそが、実は主題を実感するに不可欠な準備だったのだと気付かされるのです。


普通、小説は何を書くかは作者の意志によって創出・選別されている。書き手が物語を作る上で何か意味がある出来事や心情を描き、それを積み重ねることで全体像を組み上げる。逆に言えば、一つの方向性にとって必要なものしかそこにはない。無用な描写がダラダラと続けば普通は「冗長な駄作」とされてしまいます。


だけど現実と物語の一番の違いもそこにあって、現実では意味のあるものも、意味のないものも同じように溢れていて、出会った時にはそれが自分にとってどれだけの意味を持つものかわかりません。特にどんな体験も同じように新鮮な子供の頃は。大切な誰かとの特別な時間も、その時の主観ではその日見る予定だったテレビ番組と同じウェイトだったりするもの。だから時に一生を左右することでも、そうした煩雑さの中に埋もれてしまいます。それが特別だったのだと気付くのは何十年も経って大人になってからで、過去の自分を振り返って「どうしてあの時もっと…」と切なくなるものなのです。


この感覚を小説で表現しようとした、そんなことが可能だと思ったのがまたすごい。いろんな情報が均質に入ってくる状態を書く/体感させるというのは、もう「物語を書く」「物語を表現する」という行為の真逆に当たるでしょう。ましてそれを「散漫なんだけど面白くて読み進めてしまうもの」に仕上げるとなればなおさらです。従来の小説とはまったく違う評価軸を必要とする(従来の評価軸でも相当に傑作ではあるんだけど)、唯一無二の小説だと思います。




関係ないけど、姫乃カオルコってレズものばかり撮ってるAV監督がいますな…。