えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

黄金の9人

ちなみに「黄金の9人」(私は単純に「ピ〜スの夏」というような呼び方をしていますが)というのは、私の中では「中澤裕子を主軸としたモーニング娘。」の最終章として認識されています。誰よりもグループを愛し、そしてメンバーから愛されたリーダーが去った直後。現状からは想像しにくいですが、中澤裕子という存在なくして「モーニング娘。」という意味が成立するのか? そう懸念されるほど彼女の存在は大きかったのです。メンバーの不安も大きかったことでしょう。その大いなる逆境を乗り切ろうと初めてメンバーが立場の差を超えて一枚岩となった時代でした。実際に中澤さんの卒業の話題が出たあたりから4期に対して「新メン」という呼び方は使われなくなったと記憶しています。「元メンバーと新メンバー」という対比よりも、「中澤裕子と彼女からモーニング娘。を託された者」という対比の比重の方が大きかったからです。結果として、残された9人は「オリメン」や「新メン」といった立場の差異を超えて、必然的に一枚岩になったわけです。しかも数ケ月後には新メンバーが参加してまたメンバー間の立場の差ができてしまう事がわかっていたわけですから、それは予め失われることが予定された、期間限定の一枚岩・現在進行形の最終章なのでした。
「この時よ続けと いつまでも」
誰もが祈り、誰もが今日と同じ明日が来るフリをしていた。それはまるで文化祭の最後の夜のように、遠い未来から追憶しているかのような、熱狂の中にも どこか透明な切なさが漂っていました。


そして私にとってのモーニング娘。第二章は、五期(=中澤裕子と娘時代を共有していないメンバー)が加入したところから始まりました。それはモーニング娘。を構成するさまざまなものが解体され、再構築されてゆく過渡期であったと認識しています。その過程において、事務所の失策によりあまりに多くのものが失われました。物語性、スター、世間の関心、そして音楽的信頼……。代わりに推しメン嗜好に焦点を当てた商品群が成功を収めた時代でもありました。そこに私がかろうじて見い出したのは、「中澤裕子がいたモーニング娘。」に憧れた少女が今度は自らその憧れの体現者として歩み出すという成長と継承の物語でした。私は新垣という視点を得ることでグループとしての娘。への愛着を失わずにいられたのだと思っています。


そして最後のオリジナルメンバーである飯田圭織、初期の苦労人・矢口真里、「受け継ぎし者」の象徴のような存在でもあった石川梨華が去り、吉澤がリーダーとなってモーニング娘。は第三章となったと考えています。ですから私にとっては「青空の10人」とはこの第三章の最初の節に当たるわけですね。そこにどういう意味があったか、どういう時代だったのか、私が納得できる答えに行き着くのは、やはりこの章が終わる頃に歴史を俯瞰してみてからのことなのでしょう。


今はただ週末のコンサートを楽しむのみ。