えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

ごっちんと歴史

私のような音楽に疎い人間が作品単体についてアレコレ語ったところで実のところ何の益も効果もない。私の文章にこれまでなんかしら読むところがあったとすれば、それは楽曲なりステージなりがタレントの発達過程の中でどのような位置付けにあたるのかを規定し、多くの人が共通認識として持ち得る「物語」を提議するところにあったんだと思っています。


【後藤コン】に通っていた頃は、ごっちん本人が志向する方向性というものがある程度観客にも見えていて(必ずしもそれが私が後藤真希に求めたイメージとは一致しなかったにせよ)、一作ごとにそれが達成されてゆく過程が見て取れました。一つの流れの下、「後藤真希史」が積み上げられてゆく過程を共有することができた…と思っています。その「流れ」は物語となります。物語は多くの人に共有されることでその強度を増し、また人々は構成員としてその物語の中での役柄をまっとうしようという気持ちを持つことができました。


ですが、今は降って湧いたかのように解禁されたこの「エロかっこいい」路線とごっちん本人の志向する路線がどのように交差しているのか、私にはまったくわからないのです。今の彼女の顔立ちも、なぜだか私の記憶の中の彼女とうまくつながりません。すると当然この現状を、今まで【後藤コン】を通して構築していたごっちんの物語の延長線上にどう意味づけていいのかもわからず、流れを見失ってしまったのです。自分の中で物語が散逸してしまえば、私は言葉を失ってただ「かわいいね」とか「エロいね」とかその場での脊髄反射な反応しかできなくなってしまうのです。




私は先日ここで歴史とは事実の羅列だけではなく、共有される物語でもあると書きました。そして今、ハロプロが面している現状とそれに伴う自分の情動の停滞を顧みると、例えば現実の日本の歴史においても「物語」を喪失することがいかに国家の弱体化を招くか、いかに個々の倫理観の崩壊を招くかというところまで思考が飛躍してしまうのです。


誰か、私よりもずっと彼女への愛情深い人が、今の路線の中にも通底するストーリーを見い出してくれれば喜んでそれを受け入れたいのですが…。あるいはそれは既にネット上の本流にあるんだけど、それが耳に入ってこないほど私のアンテナが鈍ったということなのかもしれません。
 


またそういう意味で、伝え聞く松浦さんのステージは今でも物語が継続しているようでなによりです。ただそれがメディアを通じて共有できるマクロなものから、現場で足を運んだ人だけに共有されるミクロなものとなっている現状は、松浦亜弥というタレントのポテンシャルを考慮すれば、やはり残念ではあります。