えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

なっち

http://d.hatena.ne.jp/eal/20060612

>ライターとしてのスキルでなっちのことを


なっちのことをそんな書いたっけ、というのはさておき、前にも書いたけど私のライターとしてのスキルなんて---仮にそんなものがあったとして---「期日までに上げること」であり、「規定字数にまとめること」であり、「関係者と滞りなくコミュニケーションがとれること」なのです。つまり私はサイト上ではそんなスキルを発揮したことがない。皆無にして絶無。「ライター」というとまるで小説家のような文章力を想起される方も多いと思うんですけど、「会社員」と一口に言っても営業から総務までいろんな形態があるように、ライターにもいろんな形態があるのです。


例えば私はサイトではしばしば文章の途中でもノリによって文体を変えていますが、これなんかライターとしては普通に失格ですからね。というわけでここから変わります。


もう一つ言うと、「なっちのことを上手く書く」なんてのはそもそも根源的な矛盾を孕んでいると思う。これは以前の辻ちゃんと松浦の比較にも通じることなんだけど、なっちの魅力が言葉で説明できるようならそもそもなっちは「なっち」たり得ていない。なっちの魅力とは、なっち力がすごいことに依り、なっち度が高いことに拠り、なっち感が極まっていることに由る。つまり「なっち」としか表現し得ない代替不可能なオリジナルを見る者に認識させていることこそが、なっちのなっちたる所以なわけで。そしてその訴求力は他者からのプロデュースではなく、純然たる本人のパーソナリティーから生じている。だから「なっち」は「ごっちん---ゴマキ」や「アヤヤ---松浦亜弥」の間に生じる相克を持たず、どこまでも揺ぎ無い。ステージを見れば「さすがなっち」と思うし、彼女が問題を起こせば「いかにもなっち」と苦笑する。世間的な価値判断よりも先に、だ。だから「なっち」という愛称が『現代用語の基礎知識』に掲載されたのは決して偶然ではない。私の中ではそれは偶然ではあり得ない、のだ。のだのだ。



あと
>飯田さんはなー!みたいに多分不快に感じるんじゃないかなあ
というのはまったくの思い違いというか、私は飯田さんのことを考える時にその思考に他者を交えたりはしないので気にしないように。他者とのことを語る時はその他者から本人がどう影響を受けたかを語りたいのであって、他者との状況の差や、ましてやそれに対するファンの想いなど微塵も気にかけません。