えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

物語りとお約束の綱引き

以前に萌え作品って私にとっては、ソースそのものをおかずにした「ソース定食」だってここで語ったけど、ガンダム作品においてはそれはもうちょっと複雑で、
「メカに対するフェチシズム
とか
「戦争もの、ロボットものにおけるシチュエーション嗜好」
なんてものが「萌え」に代入される要素として登場してきます。



「戦争もの、ロボットものにおけるシチュエーション嗜好」というのは、例えば「初代主役メカが敵わなかった相手を、颯爽と現れた二代目主人公メカが倒す」とか「ちょっといい所をクローズアップされたキャラが直後に仲間を庇って特攻する」とか、要するにお約束のこと。


こういったお約束とフェチシズム、それに主に商品展開の事情から決定された前提条件ガンダムが数体出てきて美少年が乗る、とか)が加われば、ほとんど作品のフォーマットは固まってしまいます。ガンダム作品というのは、常にその予め確定したフォーマットと、クリエイターの「物語り」に対する欲求との間の綱引きによって生み出されているように感じられるのです。


例えば『ガンダム00』は「物語」主導の作品作りを目指したけど、仕事人としての責任からフォーマットの部分をしっかり押さえようともした、ある意味、真面目な大人が手掛けた作品であったと感じました。それがどこまで成功したかはともかく、好感は持っています。ただ真面目な分、クリエイターの狂気の発露とも言えるような飛び抜けた部分(水着美女の集団をビームサーベルで焼き殺す、とか)は見受けられなかったかもしれません。


∀ガンダム』はシド・ミードの力を借りてガンダムにまとわりついたフェチシズムをなんとか払拭し、「物語」の復権を目指した作品であったと思います。「ミードデザインがインダストリアルななんとかで素晴らしい」なんて冨野監督の言葉を私は一切信じてなくて、あれはフェチに対する嫌がらせという意味しかなかったと思っています。


私はやはり物語志向のガンダム作品が好きです。
最低限、「物語り」への熱を感じさせてくれなければ、それはもはや作品とは呼べないと考えています。
ただ難しいのは、じゃあフォーマットを否定して物語り主導でありさえすればいいかって言うと、やっぱり「それはガンダムじゃない!」って気持ちもあるって所です。やっぱりメカの性能を感じさせる戦闘シーンで燃え燃えもしたいし、その燃えた少年ハートのままオモチャ屋へ駆け込んでプラモデルを作ったりもしたいわけですよ。


そういう意味で言うと、福井晴敏による『ガンダムUC』ってのは圧倒的筆圧で物語主導のガンダム復権させたわけだけども、カトキハジメをメカデザインに起用することでメカ・フェチシズムに対するニーズも完全に消化しているという印象なのです。


ここでいうフェチシズムとはメカ単体のデザインに対するものだけでなく、その発展系譜の中での位置付けとか、仮想歴史世界の説得力構築への積極的寄与とか、ガンダム的な諸々を含んでのことで。