えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

読了

『子供たちは夜と遊ぶ』 (辻村深月講談社ノベルス


作品自体の感想とは離れるんだけど、この作者の作品歴というのは


・『冷たい校舎の時は止まる』
・『子供たちは夜と遊ぶ』
・『凍りのくじら』
・『ぼくのメジャースプーン』
・『スロウハイツの神様
・『名前探しの放課後』
・『ロードムービー
・『太陽の坐る場所』


という順番。で、バラバラに読んだ後にして思うんですけど、『子供たちは夜と遊ぶ』は一つのターニングポイントだったのかなと。


この作品はこの手の“叙述トリックといったミステリ系の要素を含む青春もの”というカテゴリ内で収まる限り、非常に良くできた小説です。その枠の中にいる限り、想定される一定の批判…例えば「人間が描けていない」とか「リアリティに欠ける」とか「残酷すぎる」といった声は無視できるものです。ミステリ作品に対して「人が死に過ぎる」といった非難は成立しないでしょう?


だけど恐らくカテゴリ枠の中でそれなりに高い評価(少なくともデビュー2作目というプロ生活の滑り出しとしては決して低くない評価を受けたハズだ)を受けるこの作品も、作者にとっては「失敗」だったのではないかと思うのです。この人は「ミステリだからいいんだ」と思考停止はしなかった。そしてこう考えたのではないでしょうか。



「果たして自分はこれだけの登場人物を殺すのに値する何かが書けたのか。そしてそれは果たして本当に登場人物たちを殺さないと書けないものだったのか」


幼少期の母親からの虐待、教育機関のネグレクト、そして性的な虐待 etc…
作者はこの作品内で異常殺人者を描くにあたって、一般的に想定される理由を懸命に付与しようとしています。ただ異常者なのだと、作劇上必要なキャラクターなのだと切り捨てることなく、なんとか人間として掘り下げようと真摯に取り組んでいるように見受けられます。


しかし、私にはそれによって「ヒトゴロシ」という特殊な人種が書けたとは思えないのです。そうやって肉付けされることで同情の余地は発生します。説明責任みたいなものは果たされます。だけどそれによって殺人行為へ至る心理描写に説得力が与えられるわけではありません。下手すれば殺人者を悲劇のヒーローにしてしまうだけです。同情すべき境遇を持つ多く人の中で、殺人者とそうでない者のボーダーを分つ“何か”。殺人者を異質の存在たらしめているものまでは、そこには感じられませんでした。
(私が最近読んだ中ではその異質さを書ききれてたのは桜庭一樹『私の男』だけでした)



そして作者もそのことを自覚し、自分の中でこの作品を失敗と規定したのではないでしょうか。そしてだからこそ、カテゴリーという枠の中にいれば得られる安寧を捨てて、創作行為に臨むことにしたのではないかと。


『凍りのくじら』はいかにも過渡期という感じがしますが、『ぼくのメジャースプーン』では「普遍に向かって書く」という創作行為に対する覚悟が明らかにそれまでの作品とは異なる次元であるのが伝わってきます。殺人などセンセーショナルな事件を扱うことによってではなく、ちゃんと地に足がついた、自分の想像とコントロールが及ぶ範囲でストーリーを語り、それでいて以前以上の鮮やさで人間の昏い悪意と善意とのコントラストを描くようになったと思うのです。

(ちなみにそこに至るまでに作者が抱えたであろう葛藤や考えは、『スロウハイツの神様』に登場する多くのクリエイターの創作姿勢に配分されているように思います)


辻村深月という名前はデビュー作である『冷たい校舎の時は止まる』に登場するキャラクターの名前でもあります。私はそのことが好きではありませんでした。「アナタのそのよくわからない自意識の引っ掛かりは、読む方には関係がない余分な情報ですよ」と、少し冷めた気持ちになった記憶があります。しかしその3年後に書かれた『スロウハイツの神様』に対して私は最上級の讃辞を送りました。ほんの数年の伸び率というか、成長の度合には単純に感心してしまいます。まさに「男子三日会わざれば刮目して見よ」という感じですね。女性ですけど。人の飛躍に何が必要なのかについて、いろいろと考えさせられる読書体験でした。