タイアップ商品プロモーションのための効率的なフォーマットが既に確立されている子供向け特撮番組では、ヒーローの機能特性と人間相関図が設定のほとんどだと言っていい。その点から見ると『仮面ライダーカブト』という作品は、登場人物のキャラクター性は強固でブレは少なく、2段変身・クロックアップといったヒーローの機能面も上手く演出に反映されている。まずまず当たりと見て間違いは無く、実際面白い回は多いのだ。
ところがこれに影を挿す2つの要素がある。
一つは謎の組織「ZECT」であり、
もう一つは敵怪人「ワーム」の擬態の万能性だ。
主人公の一人も属し、人類の味方であるはずの「ZECT」だが、その実体は謎に包まれ、その謎は思わせぶりにチラチラと見せられるばかり。これが物語の爽快感を著しく奪っている。大体、そういうひっぱり方をして成功した例がこの10年のアニメや特撮作品の中にあったか? どれも広げた風呂敷を畳み切れず尻すぼみで終わっているではないか。この『エヴァンゲリオン』の呪縛とでも言うべき構図からいい加減に抜け出して欲しいものだ。思わせぶりな要素などなく日常の仕事として怪人退治をこなしていた『響鬼』の組織の方がよほど物語に貢献している。
ワームの擬態。今回の敵である「ワーム」は人間に擬態し、人間社会に潜伏することができる。これだけならまだいいのだが、この擬態があまりに万能過ぎて物語の組み立てに支障が出ているように思える。なんせこの擬態は対象となる人間の記憶や意識まで完全に引き継いでしまうのである。登場人物の中には自分がワームの擬態であることを自覚せずに人間として暮らしている者までいるくらいだ。こうなってくると自己同一性に関するややこしい問題を孕んでくる。例えばここに脳死状態になった私と、私の記憶と意識をインストールされたジェイムス君型サイボーグがあったとする。その時に「どちらが本当の自分と言えるのか?」と考えれば、この問題が気軽に手を出すべきでない複雑さを内包していることは容易に理解できるだろう。擬態元の人間が既にこの世にいない場合、そのワームを倒すことは擬態元となった人間を殺すことと限りなく同義なのではないか? 逆に言えばワームが人間として生活を続けるならあえて倒す必要はないのではなか? 人間が全員ワームになっても問題ないのではないか? こうなるとライダーたちがワームを倒してもスッキリさわやかとはいかなくなるわけだ。
また、それほど完璧な擬態なのに何か特別な手続きが必要なわけでもなく、相手を殺す必要もなければ、相手に接触したり、相手の体の一部を奪うような描写すらない。もっと言えば擬態後も生きてゆくのに人間を殺す必要すらない。万能過ぎるのである。これでは「登場人物がピンチになった」or「ヒーローが人間を殺した」→「と思ったらそれはワームでした〜」という描写が無制限にできてしまう。実際、ここんとこそんな話ばっかりだ。それで面白いかと言えばそんなことはない。言うまでも無くゲームはルールという制限があるからこそ面白いのである。こんないくらでも好きにキャラクターを入れ替えできる状態で、物語としてのメリハリなんぞが生まれるわけはないのだ。犯人が万能の超能力者ではミステリーが物語として成立しないのと同じように。
つーわけで、とっととZECTと登場人物たちの行動指針・達成目標を明確にしてくんないと、また後半には毎年恒例のグダグダスパイラルに陥りそうな予感。なんとかしてくださいっ。