えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。


誰にでも、どんな話題にでも、公的な言葉と私的な言葉というものがあって、私のヲタ活動で言えば、どちらかと言えば「モー神通信。」は公的な言葉を残す場所だと(あくまでどちらかと言えば、ね)自分では思っている。ここで私が定義するヲタ活動における公的な言葉とは、できるだけ多くのヲタが共有できる話題であり、不特定多数に発信することを意識した語りということになる。最近の更新頻度の激的な低下は、この「ヲタが各人の興味の枠を超えて共有できる話題」が減ったことと、自分の感じたことを他者にも伝えたい/他者と共有したいという私の想いが減退したことの相乗効果によると言えるだろう。


一方でこの「えだは」はやはりどちらかと言えば私的な言葉にあたる。読み手のことはあまり気にかけず、思いついたまま書き散らすという姿勢だ。ニーズのない『三国志大戦』の話題とかも延々書いてしまう。まぁ、その姿勢をエクスキューズとして努力を放棄した文章といった方が正しいかもしれない。


日本ではこの公的な言葉と私的な言葉は多くは「公→私」の順番で発せられる。モーヲタテキストサイトを開設・運営してから、やがてblogに流れる人はいても、その逆はあまり見かけない。また社会的姿勢としてその順番を守ることが求められる。


例えば今回の北朝鮮によるミサイル騒動について。
南北共に民族系の学校は生徒たちに対する嫌がらせを危惧する声を発している。これは「私」の言葉である。韓国系の学校はまず北朝鮮のミサイル発射に対し抗議を述べている。これは在日韓国人としての「公」の言葉であり、これを発した後だからこそ、生徒を心配する「私」の言葉がまだ受け入れられるのだ。


一方で朝鮮系の学校では生徒を心配する「私」の言葉のみを発し、公的な言葉を出していない。彼らを代表する立場である総連もそのような立場を表明していない。まぁ、日本のこの状況で北のミサイル発射を支持できるわけもなく、かといってあの政権下で将軍様を批難できるわけもないので事情は察するが 一部の反感を買う行動であることは間違いが無いだろう。この日本における公私の順番の機微をもっと理解して行動すれば、無用な反感ももう少し避けられると思うのだが。


一部では嫌がらせを「捏造だ自作自演だ」という向きもある。もちろんその可能性を否定はしないが、日本人の犯罪加害者の家族はおろか被害者家族にさえ嫌がらせの電話が寄せられることも少なくは無いわけで、こうした社会のあり様を考えると決してあり得ないことだとは言えないハズだ。また仮に自作自演だとしても、ネット上でこうした嫌がらせ行為を肯定するかの発言があれば、結局は実際に嫌がらせがあったのと同じ効果(社会的圧力)は生じる。つまりは「嫌がらせ」の存在を否定しようとやっきになっている人間が結局は嫌がらせに実体を与えてしまっているのだ。まったく皮肉なことに。


ちなみに私の個人的な感覚で言えば、こういう嫌がらせは匿名だからこそできることのように感じる。現実に相手の顔を見て罵声を浴びせたり、暴行を加えたりというのはちょっとイメージできない。というか、そんなんするの怖いだろう。率直に自分の体験だけから語るのであれば、どちらかと言えば民族系の学校はガラが悪く、地域社会(特に同年代の学生)からはむしろ恐れられる存在(圧力を周囲に加える存在)であったから、なおさらそう思うのかもしれないな。まぁ、世の中いろんな人がいるんで、何があってもおかしくはないけどね。