えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』とモーニング娘。


Yahoo!知恵袋で「弱者を抹殺する。」という強烈な質問に対しての回答が秀逸だと話題に
http://fundo.jp/5661


あまり関係はないようですが、上の記事を読んで思い出したのはマッドマックス 怒りのデス・ロードにおける悪役イモータン・ジョーが率いる組織です。イモータン・ジョーは人々を資源の独占と武力によって統治し、独自の宗教理念で自らを盲目的に信奉させ、さらにその理念によって自らの死をも顧みない戦士を育成しています。もちろんこの組織はマックス達の敵役として描かれていますし、人を物扱いしており、現代の視点から見れば人権無視も甚だしい「悪の組織」だと言えます。
(なので、安倍政権や旧日本帝国を批判するためにそれらをジョーの組織になぞらえた言説も何度も見かけました。こんなに素晴らしいエンタメ映画の感想としてはなんとも野暮なことです…)


しかしあれを単純に「悪」と言い捨ててはこの物語世界への理解を狭めると思うのです。資源が極端に枯渇した世界ではジョーの組織運営はある程度理に適っているように見えます。実際に作品の中では大軍を擁する組織規模を獲得していますし、ある程度の期間存続しているように見受けられます(少なくともフェリオサの幼少期から現在までは持続している)。つまりは共同体の生存戦略としては有効であったということです。人権の尊重は不変の善かもしれませんが、どんな状況でも有効な生存戦略であるとは限らない。映画の結末の後、フェリオサによる統治はより民主的なものになるでしょうが、それが十全に機能し、持続可能であるという保証はどこにもありません。と言うか、福祉(水)のバラまきから始まる新しい政権はうまくいく可能性はどう考えても高くはないでしょう。人々はさらなる福祉を求めて堕落し、共同体としての力を失って他組織に滅ぼされるか、あるいはそれを見かねたフェリオサがジョー以上の独裁者へと反転するか…(※)。いずれにしろ明るい未来を無邪気に信じることは困難です(だからこそマックスはそこから去る。そして理想の失墜や魂の堕落と距離を置くが故に永遠の部外者である彼は堕ちない英雄となるのだ)。明るい未来を確定させたいのであれば『2』でしたように登場人物の一人にモノローグで「そして砦は平和に繁栄したのだった…」と未来の視点から歴史を述懐させても良かったはずです。そうしなかったのは結末に幅を持たせたかったのでしょう。



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物語が描くべきもの

では結果的にうまくいかないから彼女たちの行動に何の意味もなかったのか? 本作は無為の物語なのか? と聞かれれば答えは否でしょう。どういう結末を迎えるかには物語の重心はない。そう、結果ではなく、フェリオサ達が人間らしい生への回帰に挑んだ瞬間を描くことにこそ意味があったと思うのです。一瞬の希望を信じ、情熱をもって行動を起こした瞬間。その瞬間に魂に注した光を描く。変更不可能な現実の前に「それでも」と抗い、あがく人間の姿を。
(この「それでも」は『ガンダムUC』の主人公が、閉塞した現実の理不尽に直面した時に繰り返したセリフでもあります)


アイドルだってそうです。アイドルを「卒業したら全然テレビに出なくなった」「しょせんその程度」なんて言って揶揄する人はいつだっています。結果的に「芸能人」として大成しなかったからと言って、彼女達が青春時代を捧げて放った輝きの尊さが失われるわけではないと思うのです。


クソったれな人生を照らすのはいつでも一瞬の希望への信仰であり、それに殉じる懸命な生です。つんく♂が『I WISH』に込めたもの。「人生って素晴らしい」、そう感じることができた自分の魂に殉じることだけが、ままならず、そして延々と続くその後の人生を切り拓く力を与える…… 私はそう信仰しています。


このように私の中では『マッドマックス 怒りのデス・ロード』と、『ガンダムUC』と、モーニング娘。はつながっておるのです。



(※)
その時は闇落ちしたフェリオサは義腕にいかつい武器を装着して「鉄腕のフェリオサ」とかいう二つ名で呼ばれているんでしょうね。それが次回作のラスボスだったりしたら痺れる…。