えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

分断されきった世界に『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』が示す小さな希望

このテキストは『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』のストーリー上重要な部分には触れてませんが、若干のネタバレを含みます。読むかどうかは自己責任でお願いします。

 

<この先ネタバレ>

 

 

映画は単独のエンタメとして、シリーズの集大成として大変面白かったのですが、ここではそれとは別にちょっと脇道のお話をしたいと思います。

 

前作のラストで、敵であるミステリオはスパイダーマンの正体がピーター・パーカーであることを暴露し、さらに「そのピーターこそがドローン犯罪の犯人であり、自分は彼に殺された」というフェイクニュースを世界に向けて発信します。そして今作では、動画配信者(JJJ)がこのフェイクニュースを受けてスパイダーマンが悪者であるという陰謀論を煽り立て、その結果として、世間の人々はスパイダーマンの潔白を信じる者と、ミステリオの言葉を信じて彼を非難する者に決定的に分断されてしまいました。もちろん映画の観客にとってはピーターが潔白なのは明らなのですが、結局この激しい分断は劇中で(現実的な手段では)解決することはありませんでした。

 

 

今までの映画だったら、間違ったことや陰謀論を信じていきり立ってる人々がいたとしても、主人公たちに真実を突き付けられれば「参りました」と降参して反省し、分断が解決する展開も可能だったと思うんです。それこそハリウッドの映画関係者の多数はリベラル派なんだろうし、トランプ信者とミステリオ信者を重ね合わせれば、その方が作り手にとっては痛快ではあったでしょう。ストーリーとしてもスッキリするはずです。

 

だけど今は、何か証拠が提示されたところで「それは捏造されたものだ!」という水掛け論が始まって問題は何も解決しないのだと、骨身に染みてわかってしまっている。そんな現状で仮にエンタメの中だとしても、「真実を突き付けて痛快に解決」なんて展開を描くことは、あまりにご都合主義であり、今の時代と誠実に向き合ってるとは言えないというスタッフ陣の判断だったのだと思います。それほどアメリカの分断は深刻なのでしょう。

 

 

そんな中で、妙に印象に残ったシーンがあります。それはピーターが学校の先生3人と会う場面。この3人の先生は熱烈なスパイダーマン擁護派、スパイダーマンを糾弾する陰謀論信者、そして中立派と別れているんですね。彼らの意見は決してまとまらず、見苦しく言い争っている…。コミカルなシーンという扱いでもないし、ストーリーに必須というわけでもない。その割にはそこそこ時間を取っている。全体のトーンの中でやや浮いているというか、妙なひっかかりを感じたシーンでもありました。何がひっかかったのかと思い返してみれば、この3人の面接官はまったく互いの意見を受け入れていないのに、それでも同じ職場に勤めているんですよね。

 

これまでディズニーは、社会の進むべき(と製作陣が思う)姿を劇中の現在として描いて来ました。例えば人種差別のない社会、女性が活躍する社会、障碍者も隣にいる社会などを。そう考えれば、このシーンで描かれた、考えが違っても互いに排斥(キャンセル)し合うことなく、職場では共存できている世界が、今製作陣が現実に想定可能な「精一杯の明るい未来」なんじゃないかなと思い至ったんです。

 

現在はまだ分断のただ中で、その解決の糸口すら見えていない。そんな状況では分断が解決した社会なんて、「進むべき未来」としてさえ描くことはできない。だけど、せめてもの提示として、分断されたままでも、考えが違っても、互いに排斥(キャンセル)し合うことなく、主義主張と関係ない場所では共存していこうという主張が込められているのかな、と感じた次第です。