えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

ドラマ『カルテット』最終回


ついに道重さんの再生イベントが始まっています。私が行くのは木曜日。先日は『ヤングタウン土曜日』で2年半ぶりにさゆの肉声を聴くことができました。


特別感のある再生イベントや復帰激ももちろん楽しみだけど、blogとかラジオとか、「さゆがいる日常」が早く帰って来て欲しいという気持ちが強いです。だから復帰の話題そのものよりも、ハガキ職人の「ブラックデビルだウェ」さんの名前をさゆが読み上げた瞬間に一番高まりましたね。




■ドラマ『カルテット』最終回
普通の作劇なら最後のコンサートを大成功か大失敗かに描写すると思うんです。だけどこのドラマでは音楽が届かなった人と届いた人の両方を平等に見せて、登場人物の人生に対して作り手の「評価」を押し付けたりしない。彼らが幸せかどうかは彼ら次第だし、彼らを好きになるかどうかは視聴者次第。


カルテット「ドーナッツホール」の4人はもちろんだけど、特に際立っていたのはやはりありすちゃんだろう。
「人生チョロかったー! アハハハハハッ!」
って言い放ちながら目が笑ってないありすちゃんに感じる根源的恐怖。真っ暗な淵を覗き込む怖さ。目的を達するためには手段は選ばず、倫理に囚われず、愛情すら手段でしかない、でもバイタリティには溢れる彼女。しかし彼女の人生にはカルテット「ドーナッツホール」の4人にとっての音楽や仲間のような、損得を超えて寄り添いたいと思えるものは存在しません。普通のドラマならそういう人物は分かり易く破滅させる。あるいは破滅して改心して魂の救済を見出すまでを描く。だけど、ああ、だけど…


このドラマの脚本は作り手という神の視点から登場人物を救ったり罰したりしない。どの人物の生き方も否定していない。ありすちゃんをわかり易く不幸にしたりも救ったりもしない。4人に非難の手紙を書いたであろう帽子の女性に一筋の涙を流させたりしない。それは優しくもあり、どこまでも残酷でもある。だけど彼らの人生は彼ら自身が帳尻を合わせるしかない。



私は悪役を演じた役者が道で悪口を言われるとか、演じた役のイメージで普段の役者を見るのはこれまで馬鹿々々しいと思ってたけど、ありすちゃんを演じた吉岡里帆さんと道で会ったらやっぱり恐怖を感じてしまう気がする。それだけ印象に焼き付いたキャラクターでした。最後まで。


.
Netflixドラマ『アイアンフィスト』
ディフェンダーズ4作の中では一番微妙でした……。


アイアンフィストの短所は端的に言って「弱い」ことなんですよね。単純な戦闘力だけじゃなく、トニー・スタークのような財力、知能、人脈がないのはもちろん、デアデビルのような法律的知識や親友も、ジェシカのような調査能力も、ルークのような背負うコミュニティもない。戦闘力も常人に苦戦するレベルだし。それなのに公的機関に頼るという発想は一切なく、腕力だけで解決しようとする上に、スーパーパワーを持たない常人をやたらと戦闘に巻き込んでるから、どうしても気持ち的に応援しづらい。やっぱヒーローは一般市民を守ってこそなんで。


どうしてマーベルとDCコミックの実写化は、ドラマと映画でテイストが逆転してるのかなぁ。マーベルは映画がヒットしてるんだから、ドラマもそっちのテイスト(軽妙、ヒーローとは…とかウダウダ悩まない、ちゃんとコスチュームを着る)に合わせればいいのに。

.