えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

SATOYAMA movementに思う

公式サイトを見るとSATOYAMA movementの理念は以下のように記されています。


「新しいアプローチで、地域(里山)の景観と暮らしを考え、地域(里山)の生活や文化、景観の再生を図る為のきっかけとなる運動を始めていきたい」


そしてこの前のイベントを見るに、この理念はユーザーに対しては「SATOYAMAに行こう」と「SATOAMAでできたものを買おう」という二つの呼びかけとなっていたように思います。「SATOAMAでできたものを買おう」に関しては、対価に見合う価値があれば購入するのは吝かではありません (自炊しないので大根とか南瓜とかの素材そのまんまを売られても困りますけど)。 一方で「SATOYAMAに行こう」に関して複雑な感情を持っています。


地域としての「SATOYAMA」をどう捉えるか、これはその人の育った環境によって大きく差が出ると思うんですよね。生まれてからずっと都会で育っている人にとっては純粋なレジャー地であったり、疑似的なノスタルジーを感じることのできる一種のテーマパークかもしれません。一方、「SATOYAMA」と言える地域に生まれ育った人にとってはただの日常風景でしょう。そして私はと言うと、地方都市の周辺住宅地で育った人間でした。



■私のSATOYAMA
私が育った京都市山科区京都市内と言ってもいわゆる京都らしい京都とは異なり、京都・洛中から山一つ隔てた小さな盆地にありました。京都・大阪を通勤圏内に捉えるベッドタウンとなることが目された小さな町ですが、私が幼少の頃にはまだ緑も多く、特に国鉄の駅から遠かった私の実家の周辺には住宅地を取り囲むように田んぼや畑が広がっていました。今でこそ超インドア派の私ですが、幼少期は意外にアウトドアで遊ぶことが多く(そもそもインドアで遊ぼうにもファミコンも家庭用ビデオもなかった時代だ)、当時の主な遊び場はこうした農耕地や裏手の山だったのです 。


そうした場所での遊びのメインはもちろん「生き物獲り」でした。山でのカブト・クワガタはもちろん、田んぼにも生き物は溢れていました。


水棲生物としてはアメンボ、ヤゴ、オタマジャクシ、カブトエビ、豊年エビ、カイエビ、ドンコ、タナゴ、そしてそれらを捕食するタイコウチミズカマキリ、ザリガニ、サワガニ、イモリ…。 (残念ながらタガメは見た事がない。グループに一人は「俺、タガメを捕まえたことあるぜ」と言い張る者がいたりして、思えばあれは今で言うところの「スーパーレアカードをゲットした」みたいな感覚だったんだな)


あぜ道にはイナゴ、ショウジョウバッタ、トノサマバッタテントウムシ、カマキリ、カタツムリ、ナメクジ、トノサマガエル、イボガエル、アマガエル、ニホントカゲカナヘビ、シマヘビ。そして秋には赤トンボ、シオカラトンボ、ギンヤンマ、コオロギ、スズムシ、キリギリス…


上にも書いたようにこれらの生き物をよく獲っては遊んだものでした。春は花を摘み、畦でヨモギを摘んでは母親に草餅を作ってもらい、夏から秋は生き物を獲り、冬は休耕地で飼い犬と走り回る…。捕まえた生き物をわざわざ殺すようなことはしませんでしたが、水槽で飼ったあげくに全滅させたことも一度や二度ではありません。環境の変化に敏感なカブトエビなんかは水槽に入れた翌日にはもう全滅してましたっけ…。小さな命のあまりの儚さにものの哀れを感じたりはしましたが、罪悪感に胸を痛めるほどではなかったように思います。当時としては、それこそ生き物なんて春になれば無尽蔵に湧いて来るものという感覚でしたから。


そんな風に過ごしていた私ですが、小学校に上がって学校の友達と遊ぶようになると田んぼからは自然に足が遠ざかっていきました。そしてあれはいつ頃だったでしょうか。ガンプラが大流行する前だから1979年か‘80年だったと思います。学校の朝礼で先生達から「非常に強い農薬が使用されるので田んぼに入ってはいけない」と通達されたのです。それは各家庭にも通達されていたのか親からも同じ注意を受けました。その農薬が地域で一斉に導入されたというのは農協の方針か何かだったのですかね。そしてそれを聞いてしばらくしてから、私は久しぶりに田んぼに出てみました。そしてそこで見たのです、命のいない田んぼを。それまでどんな区画を切り取っても必ず視界に入り、ピロピロと慌ただしくエラを動かしていたカブトエビや豊年エビがどこにも見当たらないのです。不気味な静寂の世界に、何かの凶兆のようにウマビルだけが極彩色の体を蠢かしていました。それ以降、私が田んぼで遊ぶことはなくなりました。


飼っていた犬は天に召され、共に走り回った田畑は近所の酒屋がコンビニに改装された年に駐車場に姿を変えました。裏山にはゴルフの練習場としての開発計画が立ち上がりカブト獲りをしていた林の一部が伐採されましたが、バブル崩壊の影響か計画は頓挫。しかし原状回復されることはなく剥げた山肌だけが残されました。大学生になって大阪に暮らし出すと、帰郷する度に段階的に景色が変わっていくのが見て取れました。恐らくは自分達で食べる米だけでも育てようと思っていたのでしょうか、住宅地の合間にわずかに残されていた田んぼがあったのですが、それもやがて力尽きるように消滅し、すべては住宅地と駐車場に変わりました。そこで息づいていた無数の命をコンクリートの下に閉じ込めて。そして私はすっかり見慣れぬ街へと変貌した故郷を後にし、就職のために東京へと出て来ました。



こうして思い返してみると私のような人間が見て来た風景にも30数年の世相がそれなりに反映されているものですね。生の時間を生きて来たんだから当たり前か。ともかくこの時代に生きた私のような人間、すなわち地方都市の周辺で育った人間には少なからず同じような経験をしていると思うのです。すなわち、自分のSATOYAMA(原風景)を失うという経験です。だから今になってSATOYAMAを提示されても、どうしても自分が幼少時代に過ごした風景をそこに重ねて見てしまいます。そして気付くのです。自分が行きたい、帰りたい田畑の風景はそこではないと。それはもう年月の彼方にしか存在しないのだと。


ハロプロのメンバーがレジャー地としてSATOYAMAを訪れ、そこで自然と触れ合って過ごす様を楽しく拝見しています。だけど自分がSATOYAMAに行くとなると、なんだか他人の原風景を拝借して自分のノスタルジィを埋め合わせるようで、いまいち前向きな気分になれないのです。


渓流とか果樹園とか自分の子供時代に身近になかったものに関しては、何のこだわりもなくレジャーとして楽しめるんだけどな。