えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

喪失とは

宮部みゆき『チヨ子』 光文社文庫という読み切りを購入。その中に、ヒロインが着ぐるみを着ると他者が幼少期に大切にしていた玩具が見えるようになるというSF(すこし・ふしぎ)話があって、私も自分が小さい頃に持っていたぬいぐるみのことを思い出しました。


そのぬいぐるみはクマのゴローと言って、物心ついた時から私のそばにいました。末っ子であり誰に対しても被支配の関係にあった私にとって、ぬいぐるみのゴローは唯一の支配できる他者であり、弟であり、手下であったわけです。親から何かで怒られて癇癪を起した時などはゴローに八つ当たりし、そのうち泣き疲れてゴローを抱いて寝る、というような毎日でした。そんなゴローに罪悪感は抱くものの、面と向かって謝ったりはしません。私にとって、気まずい思いをする謝罪などしなくても、私を好きでいてくれる唯一の相手だったからです。


ある日、そんなゴローのボタンでできた目が取れて、どこかに行ってしまいました。途方に暮れて泣いている私を見かねて母は別のボタンでゴローの新しい目をこさえてくれたのですが、それを見て私はまたギャン泣きしたのを覚えています。単純化されたキャラクターイラストというのは微妙な、だけど厳正なバランスで、そのキャラクター性が構築されています。目が代わればもはや同一のキャラクターとして認識できないのです。その時の私の悲しみと恐怖は、あるいはゴローを紛失した場合よりも大きかったのかもしれません。多分、幼い私にとって、以下の真実を初めて突きつけられたのがこの体験であったからです。


例えば初恋の幼馴染みがいたとして、その子が遠くへ引っ越しても初恋が失われることはない。その子が亡くなったとしてもそうだ。しかし数年経ったある日、見るからにクズな男の腕にブラ下がり、崩れた衣装に蓮っ葉な口調の彼女を目撃してしまえば、その恋は思い出ごと失われる。


そう、真の喪失とは、対称が去ることではなく、対称が変質してしまうことです。そのことの恐怖、切なさ、喪失感を、ゴローを通して私は初体験したのでした。




まぁ、ですからハロプロヲタ時代の読者様から「TKがAKBオタになって哀しい」と言われると胸が痛いです。いや! 好きだから! 今でもAKBよりは好きだから! 見る機会がTVで少ないだけだから!


変わらない者が欲しいねぇ。


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