えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

AKB前田敦子

まるつさんちのラジオに参加した時には、「どうして前田敦子がAKBで一番人気でセンターなのかわからない」という話をしたんですけど、次の日、スカラベさんが「マエアツは嫌いだけど、いったん好きになったらハマりそうで嫌だ」と言っていて、そのことから発展して、前田敦子に焦点を当ててAKBを俯瞰したら、彼女に関してある程度見えてきました。




前田敦子は常にセンターポジションにいるメンバーだ。
前田敦子はいわゆる「清純派」「正統派」だ。


私は「正統派」であるが故に前田敦子の個性が薄く、押し出しが弱いと考えていました。それにAKBのような現代風で垢抜けた女子集団の中では、彼女のルックスはむしろ「古風」で「野暮ったい」部類に入るのではないかと思っていました(それこそAKBよりハロプロエッグとかが似合いそうな)。だからどうして彼女がAKBの中で中心メンバーとなるのかが腑に落ちなかったのです。


ところが先の会話から、前田敦子に焦点を当ててしばらくAKBというグループについて考えた時、私の中のAKB像やAKBを見る視線の角度が微妙に変化していることに気づいたのです。それはつまり、いったん前田敦子を意識すると、前田敦子を経由して他のメンバーを見るようになったということです。そしてそのことによってメンバー間の個性のコントラストは強まり、逆にグループとしての輪郭線は強まったような印象となったのです。


例えばこうです。

板野友美はギャルっぽい
・小島陽菜は恋愛強者(ビッチ)っぽい
・篠田真理子はお姉さんキャラっぽい
・???はサバサバ系っぽい
・???はボーイッシュ系っぽい
・???は妹キャラっぽい
・???は面白キャラっぽい

いろんな属性にカテゴライズされるいろんなキャラクターがいます。しかし個々人に焦点を当てて見ても、それが「何っぽい」か判断する基準は自分の考えとなるため、相手に興味がない内はなかなか印象が定まらないし、また定まったとしても他者との共通認識とはなりません。しかし前田敦子という標準値を見定め、彼女を基準として彼女との比較を通して各メンバーを眺めると、こういうメンバーの個性・キャラクター性がより明確に伝わってくるのです。



逆に言うと個性は色付けでもあります。
仮にギャルっぽい板野友美がセンターになれば、「ギャルっぽい集団」としてAKB全体のイメージを色付けしてしまい、そうじゃないメンバーを含んだグループ全体のイメージを押し出すことは難しくなってしまうでしょう。小嶋春陽でもそう。他のどの個性でもそうです。そう考えると、一見スタンダード・キャラで、際立った「属性」がない前田敦子がセンターに位置することで、他のいかなる個性も内包し得る輪郭線を形成できます。

(まぁ、ヒロインキャラはスタンダードにっていうのはギャルゲーでも基本ですからね。「出てくるキャラ全員メガネっ子!」とかいうのはグループの枠はハッキリさせますが、ニッチ商品になり過ぎてしまいますし。そういう意味では、『スト3』の主人公がスタンダードキャラじゃなくて投げキャラのアレックスってのはどうよって話でもある)



「彼女がセンターにいることで各メンバーの個性をより楽しめる」 
「彼女がセンターであることでさまざまな個性をグループ内に内包できる」

結論としてはこのあたりが彼女がセンターにいることの妥当性でしょう。他のメンバーにとっても、彼女をセンターに据えておくのは、自分の個性を伸び伸びと演じられて何かとやりやすいんじゃないでしょうかね。

(ちなみに、現状では私が前田敦子のタレント性やパフォーマンススキル、エゴの強さなど、個人としてのセンター素養をよく知らないので、その辺はとりあえず度外視して考えています。「じゃあ標準キャラなら誰でもセンターが務まるのか」と言えば絶対そんなことはないわけで、現状では無個性に思える彼女の中にも、絶対に彼女をセンターたらしめた固有の核があるハズなんですけど、そこはまだ名前覚えたばっかの段階なんで、よく知らないのです)



そこで今度は弊害の話。
「いったん好きになったらハマりそうで嫌」という先の発言に戻るのですが、前述のような前田基準視点を得ると、他のメンバーが腹具合によって毎日変わる「おかず(オカズ)」で、前田敦子は「毎日食べる白米」という位置にすっぽりはまってしまう恐れはあります。また前田と比較することでメンバーの個性はより明確にはなるのですが、それは個性(=属性)の部分により目がいき、「キャラクター」度を増すということでもあります。つまり、他のメンバーは「キャラクター」で、前田敦子だけが「唯一の女」であると。確かに、そういう前田敦子中心世界への潮力を感じますし、それに取り込まれることを私も警戒しています。


というか言葉を紡ぐためにここまで考察してしまったことによって、既にそこに取り込まれてしまったという可能性も否定できません。言語化は「自覚できてるからオレは大丈夫だよ」という言い訳にはなりますが、逆に一度明文化された思考を無視してグループを眺めることは可能なのか、という問題も孕みますし。


だからつまりですね。こうやってここで言語化したのは、将来的に自分だけハマってたらなんか嫌だから、読んだ人を巻き添えにしようかとか、そういう意図なのです。



あと前田敦子はエマ中尉みたいな髪型だ。