えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

読了

『ぼくのメジャースプーン』辻村深月講談社ノベルス

「ぼく」の通っていた小学校でうさぎが何者かに惨殺され、それを発見した幼馴染のふみちゃんはPTSDを患い不登校となってしまう。「ぼく」は自分の持つ不思議な力でこの問題に臨もうと、同じ力を持つ「先生」のもとへと通うことに…。


デビュー作である『冷たい校舎の時は止まる』を読んで、「ポスト恩田陸…って感じかな?」という感触を持っていた辻村深月。まだ「継続的に読む作家」か「行きずりの作家」かを決めかねていましたが、この1冊で前者の箱に収納することが決まりました。犯罪トリックがあるわけではないんだけど、微妙に物語を解き明かしてゆくのにミステリ的要素が入っている所なんか、本人の嗜好が見えて好感が持てます。


物語の期間を限定し、その期限中に主人公が目的を達しなければならないというタイムアタックものではあるんだけど、その期限の最初の提示がプロロ−グとしては実に効果的。


「市川雄太が1週間後に謝りに来る」


これが物語上で最初に示されたタイムアタックの条件なのです。例えば1週間後に宿敵と対決するのだとか、恋人が引っ越すのだとか、孤島に連絡船が来るのだとかであれば、それに向けてどのような物語が綴られていくのかは朧気ながら推測は立ちます。しかし、「謝りに来る」である。これが主人公にとってどのような意味を持つのか、それに向けて何をしなければならないのか。皆目見当がつかず、「どういうことだ?」とつい読み進めてしまうのです。



また、悪意を描写するのに、連続殺人や強姦といったショッキングな題材を用いれば小説としてセンセーショナルにはなりますが、物語中でいくらたくさんの死体を積み上げても、逆に現実味や命の意味は薄れてしまいます。一方、この作品中で起きる事件自体は「兎殺し」であり、陰惨ではあるもの凶悪犯罪ではありません。しかし事件が起きるまでの人々の日常と、その事件によってどのように日常が変化したのか、どのように人が歪められたのか、それを丁寧に描写することによって、人の愛すべき面と憎むべき悪意のコントラストを鮮やかに描き出しているのです。それは人の善意を信じたい作者が地に足のついた位置から、人の悪意を正面から捕らえようとした姿勢の表れであると感じました。


<以下ネタバレ注意>


それと主人公が持つ特殊な能力の設定が、なかなかに効果的なのです。このあたりは『デスノート』のような、最近流行の条件を提示型の特殊能力ものの趣きもありますし、またその能力のあり方そのものが、人がどう悪意と向き合えばいいのかという問いかけにもなっています。


主人公の能力とは相手に言うことをきかせる特殊な声。『コードギアス』における「ギアス」能力に近いのですが、もう少し複雑で
Aしろ、さもなくばB
と、Aという命令を遂行させるのにBという条件付けをする必要があります。例えばこうです。

「頑張れ、今頑張らないと一生後悔するよ」

これによって相手は強制的に「頑張る」わけです。
しかしBの脅しよりもAの方が抵抗が大きい場合は能力は発動しません。
「左手を動かすな、さもないと死ぬ」
ならOKでも、
「死ね、さもないと左手が動かなくなるぞ」
では無理なわけです。
またBの条件は本人の行動によって可能な範囲に限られます。

「走れ、さもないと車に轢かれる」

では発動しません。


そしてこの能力を使えるのは一人に一回のみ。ここでまた「兎殺し」という罪が生きてくるわけです。相手が連続殺人などの死刑が妥当な凶悪犯なら結果的に相手が死ぬように能力を使ったとしても、抵抗は薄いでしょう。しかし「兎殺し」です。そこにある悪意もそれが起こした結果も許し難くとも、法律では器物破損などで執行猶予となってしまう程度の罪なのです。この犯人にただ1回、なんと「声」をかけることが適切なのか。小学生の主人公は、「正しい回答」が決して提示されない問題に正面から向き合い、懸命に考えます。この能力を使ってあれこれと冒険するのではなく、そのたった1回について悩み、考え、そして実行する話なのです。