えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

コメントレス

一昨日のコメントにレスをします。
ウチには珍しく真面目な話題なのでガッツリと。




>ベポラップさん
>ある種の自殺のような大量殺人というような発言が印象に残りました。
>誰の発言か忘れましたが。


「死刑があると死刑目当ての大量殺人が起きる」
という意見は小数の特異な例を一般化するものですが、廃止派の主張としては
「犯罪抑止力がないから、死刑は廃止すべし」
という意見よりはまだしも有効かと思います。
(もっともその有効ポイントも存置論者が「死刑を恐れて思い止まった」、「死刑を恐れて自首した」という小数の例を挙げれば、相殺できてしまうわけですが)


あと死刑目当てで人を殺す人間というのは、
「マスコミの注目を集め、時の人となる。人生を自らの手でリセットする」
という幻想を抱き、そこになんらかの歪んだロマンを抱いているのだと思いますが、これは扇情的なワイドショー的報道を控え、死刑制度の公開性を高めることである程度は抑制できるかと思います(0にはならない)。正確な情報の前には、ロマンは常に駆逐されるものですから。



>ashleyさん
>そんな更生の余地の無いようなのは生かしておいても


基本的には同意です。
死刑反対派の意見として
「死刑は国家による人権侵害(殺人)だ。残虐な刑罰だ」
というものがあります。私もその通りだと思います。
公権力の施行による殺人はそれだけで社会にとってダメージであり痛手です。
しかし死刑を下されるような凶悪犯罪が起きた場合、
社会は既に深刻なダメージを受けているのです。
棘が体内深くに刺さったような状態です。
そんな状態で表面を取り繕っても、
食い込んだ棘の周辺の組織細胞が徐々に膿んでくるばかりでしょう。
せめて周辺の組織が回復に向かうためにも。
ある程度の痛手を覚悟してでも、根本原因である棘を
外科手術で排除する必要があると思います。


社会的ダメージを覚悟してでもケリをつける。
その方が健全な回復が望めると思います。




>美竹涼子さん
>先生は殺人犯が責任能力を”問えない”「基地ガイ」と認定された場合に


納得できないですね。
少なくとも私が被害者遺族なら永遠に無理だと思います。
責任が問えないような人間は、国の責任において行動を制限すべきだし
行動が制限されていないのなら、その責任を問うべきだと思います。


ただ、責任能力あるなしの境界の判断こそ難しい。責任能力が回復したと判断された人間が外で犯罪を犯した場合、その判断を下した人間の責任が問われるわけで、治療者は自己保身の安全策として、外出・退院の許可を与える基準を過剰に高く設定してしまう恐れがあります。そうなると正常な者まで拘束してしまう。下手したら知能障害を持つ人がみな収容所送りです。どう考えてもそれは現代社会においてはNGでしょう。


そう考えるともっと根本的に、

責任能力の有無に拘わらず、犯した罪の軽重のみで刑罰を判断する

と割り切った方がまだしも公正で、筋が通っているかと思います。
誰も罪に問わないならば被害者は単に「運が悪かった」ことになってしまいます。
であれば、責任能力がない人間が誰かを殺してしまい、
そしてそれに見合った刑罰を受けることもまた、
そこにある種の気まずさがあることは否定しませんが、
「運がなかった」とあきらめるしかないでしょう。


・・・・あとなぜ私が先生なの?w




>( ^^) _旦~~ さん
>「もしもシコシコ刑があったら」ってスレを立てたことがあるTKさん
うぉい! 濡れ衣だ! ってかなんだよその刑は!



>よっしー さん
>先生は℃-uteってありですか?

なんかよくアンチキッズ的に言われるんですけど、なんでそう思われてるのかよくわかんないんですよね。私の楽曲大賞のエントリだって、2006年の1位は『大きな愛でもてなして』に入れてるし、その前の年は5曲中2曲はBerryz工房に入れてるのに。まぁ、キッズヲタには厳しいかもしれませんが、基本キッズは好きの範疇ですよ。気に入った商品にはお金も出しています。


私はただ「小学生には萌えない」というだけです。今はみんな小学生じゃないけどねぇ。小学生として最初に知った子の脳内ポジションを今さら変えるのは難しいんだよ。それは小学生をデビューさせるリスクの一つとして厳然とあるものかと。