えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

擬態宗教

私は宗教が苦手です。
特に宗教以外のものに擬態する宗教が。


私には日本における「人権派」の何割かは人権教の教徒に見えます。



人権は人が良く生きるための尊重すべき理念であり、道具であり、知恵です。
そして人が作ったものですから限界はあります。
人権に関し先進国と言われる国々はその限界ときちんと向き合い、
筋を通して運用しようとしているように思えます。


人権は万能の教義ではありません。
人権・人権と唱えていたって、万人を救えるわけではありません。
しょせん道具なのですから
片方の人権を尊重すれば、他方のそれを損なうことだってあります。



例えば、犯罪者が無辜の市民を人質に立て篭もった時、
市民に危害が及ぶ可能性があれば
犯人射殺は是とされるのが国際基準です。
仮にその可能性が1%だったとしても、それは決して起きてはならず、
そして一度起きれば取り返しのつかない1%だからです。



なのに日本では立て篭もり犯を射殺した警官が人権派の弁護士に訴えられたり
「殺さなくても解決の道があったのでは」という批判がメディアで起きたりします。
また射殺許可が降りないせいで、現場の警官が危険な目に合ったり
実際に亡くなったりしています。


「殺さなくても解決した可能性」があったことは問題ではないのです。
「人質に危害が及んだ可能性」があることが問題なのです。
「犯人を無事に拘束する可能性」を模索しているうちに
人質や警官に被害が出ることは決してあってはならないし
グズグズとその可能性を放置してはならないのです。




人権を理由に死刑を廃止した多くのいわゆる「人権先進国」でも
凶悪犯の射殺が許されているのは、人権が宗教ではなく、
より円滑に社会を回していくための道具なのだと
きちんと認識されているからではないでしょうか。
そういう意味で、確かに日本は人権後進国と言えるのかもしれません。