えだは

モー神通信のTKです。ほんばんは。

ケータイ小説

昨日の更新では
>世の中の不幸には2種類あって、
>一つは不幸な事件に出会うというもの。 例えば家族を亡くすこと。
>もう一つは不幸に生まれつくというもの。例えば家族が欠けた家庭で育つこと。

と書いたわけだけど、仕事柄ケータイ小説というものにいくつか目を通したのだが、そこで語られる不幸とは基本的に前者の不幸ばかりであるようだ。そして


>前者の場合は、事件までに形成された人格と交友関係で
>その不幸を乗り越えてゆくことになる。


とも書いたけど、不思議なことにケータイ小説の場合は主人公の人格形成についての掘り下げはない。掘り下げはおろか描写そのものが一切ない場合すらある。これでどうやってキャラクターの心情を想像しているのかと不思議に思うし、実際私が読んでも想像不可能なのだが、どうやらケータイ小説の読者は人格形成についての描写がない場合は無条件に自分を投影してキャラクターの心情を把握しているようなのだ。というかそれ以外に、あのようにキャラクターの背景への説明が不足し、心理描写の少ない作品に【感情移入】したり【感動】する方法はあり得ない気がする。


小説は他者の人生を想像し感情移入するものだが、ケータイ小説は「自分」が架空の人生を体験するものらしい。 『FINAL FANTASY』のようなキャラクターの立った劇場型RPGではなく、勇者に自分の名前を登録してプレイする古典RPGみたいなものか。となれば主人公の人格形成に関する描写を掘り下げないのも道理だ。余計なディテールを加えれば、その分「無条件の自己投影」は阻害されるのだから。


しかし、この「無条件に自己を投影」という点。少し怖い。そこには「人は一人一人違う」という大前提を持たない、同質性の高い人々を想像してしまうからだ。そして、そういう集団こそ異端者には残酷だからだ。