えだは

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『C.E.73 スターゲイザー』(公式)

若いアニメファンの間で人気を集めたガンダムの新シリーズである『機動戦士ガンダムSEED』の外伝として描かれたこの作品は、しかし『SEED』本編とは大きく趣きを異にする。本編との差異として最初に挙げられるのは、主要人物に大人を配していることであろう。大人が演じるハードタッチの戦争ドラマは、10代の美形キャラたちによる華やかな青春群像劇とは当然異なる。しかし、より本質的な違いを語るならば、それは「状況に対しての個人の無力さ」が描かれている点だと言えるだろう。


スターゲイザー』では、戦争や人種対立といった負の事象に対し、それが非であると誰もが知り、誰もが望んでいないのに、抗えずに飲み込まれてゆく様が描かれている。冒頭の文明都市が洪水に飲み込まれるシーンはその象徴であり、印象的に映された、濁流によって飛び地に隔てられ、途方に暮れるノラ犬の姿は、そのまま状況に翻弄される矮小なる人間の姿とも重なるだろう。


本作ではそのような圧倒的な状況の中で、個としてあがく大人たちを描いている。しかしその個々人のあがきは決して大勢に影響を与えることはない。エドは命をかけてセレーネを宇宙へと上げるが、子供までを暴力に駆り立てるテロの連鎖を止めることはできないし、ソルは攻めてきたファントムペイン(特殊部隊)を現存の設備を利用して追い返すことはできても、その本拠地に攻め入って責め滅ぼすことはできない。セレーネがいかに恒星間航行機「スターゲイザー」に人類の夢を託そうとも、軍はそれを兵器としてしか理解せず、強引に接収しようとする。そうした個人個人の想いの連なりが結果として達成したことと言えば、ただ一人の洗脳された強化兵士の心に幼き日の温かい記憶を思い出させたことだけだ。決して、それによって戦争も、憎悪の連鎖も終わりはしない。


ここが『SEED』テレビ本編とは大きく異なる所以だ。テレビ本編の主人公たちは、いわばスーパーヒーローなのだ。象徴的なのは戦場で「不殺」を貫くキラの姿であろう。劇中で、超人的な操縦技術を持つ主人公・キラは最強のロボット・ガンダムに乗ることによって相手の持つ武器だけを破壊し、敵パイロットを殺さずに行動力のみを奪ってみせる。戦場ではだれもが「殺さなければ殺される」というルールの中に否応なしに叩き落される。その前提を共有した中でしか相い対することができないアムロやシャアですらそのルールには従っていた。超人的兵士であるヒイロですら、最低限「殺すこと」の業は背負っていたのだ)。しかしキラ君はそういった共有条件からただ一人逸脱した超越者として君臨し、たった一人で「戦争」に勝ってしまうのだ。その圧倒的なヒーロー性こそが子供に受ける理由であろうが、一方で大人がいま一歩のめり込めない理由でもあるだろう。多少でも馬齢を重ねた大人ならば誰もが知っているのだ。誰もそのようには生きられないと。だから「ええい、オレはキラのようにはうまくできんぞ!」と相手を殺してしまう脇役のおっさんの方に感情移入してしまう。


ともかく、かように『スターゲイザー』で描かれる人間の姿は世界の前に小さく無力だ。しかし一方で、その無力な人間が夢を追う姿も描かれている。戦争という最悪の状況下で、したたかに、傷だらけになっても見苦しく生き延び、恒星間旅行というバカげた夢に人生をかける−−− そんな、ヒーローにはなり得ない人間たちの姿が。そこに人間賛歌があるのだと私は思っている。このように、苦痛と絶望にまみれた世界の底からでも 星を見上げることができる。だからこそ、人間は美しいのだと。


スーパーヒーローであるキラ君であれば恒星間旅行すらアッサリできてしまいそうだ。でもスーパーヒーローが星を渡る姿には、胸が締めつけられる想いは駆り立てられないだろう。
星を見上げた幼いあの日のような
星征く船に憧れたあの日のような
そしてスターゲイザーが光の帆を広げたあの瞬間のような


もう最近の子供向けガンダムにはついていけない……そんな風に感じているかつて少年だった大人たちにこそ、この『C.E.73 スターゲイザー』は見て欲しい作品である。