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カエサルを撃て

■『カエサルを撃て』(佐藤賢一:中公文庫)
佐藤賢一による西洋史小説。『ガリア戦記』に有名なローマ軍によるガリアの蜂起とその平定が、若きガリア王ウェルキンゲトリクスと中年のローマ総督カエサルとの対立を軸に描かれる。逞しく気性激しく神のごとく傲慢に振舞うウェルンキンゲトリクスに対し、カエサルは禿頭を気にしポンペイウスへの劣等感を抱え陽気を演じる気遣いと懐柔策で人を率いる人物として描かれる。さらにガリア勢にはウェルキンの若さ故の危うさを懸念する老人アステルを、ローマ軍にはカエサルに若き理想を裏切られ憤るマキシムスを視点誘導役として配し、両者の対立をより鮮明に際出せるという念の入れようだ。ウェルキンは敗戦を重ねてもいっこうに意に介する気配がなくかえってその権威を高めてゆくのに対し、むしろ連勝のカエサルの側が精神的に追い詰められてゆくというアンビバレントな展開に、このバランスがこのまま続くのか、それともどこかで崩壊するのかと一気に引き込まれてしまった。


そもそも前半で最も不可思議な点はカエサルのその人物像の描写にある。確かに老練で自制心に優れたある意味では人心掌握に優れた人物として描かれているわけだが、政争に気を揉むその姿からは英雄たる風格が感じられない。それは本文中にも「ガリアに赴く男というのは、なべてローマの二流であった」と評される通りである。しかし歴史を俯瞰し得る読み手は、このカエサルが後に腹心ラビエヌスにもブルータスにも裏切られたにも関わらず「賽は投げられた」っつってルビコン河を渡ってローマに攻め入って帝政ローマを築き、勢い余ってクレオパトラと一発かますところまで知っているわけだ。そのあたりの史実から浮かび上がるカエサル像がこの小説中の人物とうまく一致しないのである。


しかし、そこからがこの話の真骨頂。両者は対決をくり返すうちに、敵の中に己にない要素を見出し、互いを高め合うかのように闘争の中で成長してゆくのである。そしてウェルキンの若さも、美貌も、権威も、そして英雄として振舞わねばならなかった悲哀も、そのすべてをカエサルが奪った後に、そこに立っていたのは、確かに読者の知るところのカエサルなのであった。

これまでの佐藤賢一の小説において「青春の奪還」は普遍的なテーマとして描かれてきたが、この話の中ではむしろ英雄となってしまったカエサルの姿を通して、「青春からの脱却」とその悲哀こそを描いているように思えるのだ。




■オフ
今日はもうこれさんのオフに参加。初めての人が多くでちょと緊張する。最近は知り合いが増えたせいもあっていつもコンサート後なんかでも知り合いとばかり集まってたからなぁ。思えば爆音や大規模オフといった知らない人と知り合う機会というのは最近は少ないですね。まぁ、あっても私は顔と名前を覚えるのが大の苦手なので困ったことになるのですが。